メゾン 道の果て

1月31日

 子供誕生から9日が過ぎました。
 まだ実家近くの小児医療機関に入院したままですが、日が経つにつれてわずかずつの進化が見られるようです。
 誕生5日目から集中治療室を外れて1ランク緩い新生児管理室に移されました。6日目からは体温前後の温風による管理もなくなり、25℃の室温で薄い布を羽織られていました。お外に出られるような準備をちょっとずつ進めています。

 6日目となる28日に、妻が産婦人科医院から退院しました。今回の入院と帝王切開手術にかかった費用概算は約55万円。このうち42万円を国の制度として会社の健康保険組合が出してくれるそうなので、実質的には前金を含めて13万円程度で済み、思ったほどの負担ではありませんでした。会社や各方面の祝い金が入ると実質負担額はさらに小さくなります。ただし妊娠期間中の毎回の検診でそれなりにお金はかかっているし、過去の不妊治療には毎回数万単位の大きな出費をしているので、子供が授かった人にばかり支援が行ってしまうのは..という思いはあります。
 妻の最高血圧が出産時230に達し、産後もしばらくは170前後の状態で推移して危険度が高かったので、退院後すぐに近くの内科に診察しに行きました。その後は市役所に行って出生届を提出。さらに手続きをすると子供世帯への補助金も市から出してくれるそうです。月に15,000円、年額で18万円。
 午後には保健所にも出向いて子供の入院費用に対する補助の手続き。そして夕方に小児医療機関に遠征し、ここで5日ぶりに母子が再会することができました。いつも通っている実家への通り道に小児医療機関があることを知らなかった妻は驚いていました。

 29日からは僕は本格的に仕事に戻り、しばらくの間子供には会えません。小児医療機関への道順を覚えた妻が、今日1人で子供に会いに行ってきました。体重が2100gに増え、初めて抱っこしてもらうことができたそうです。母親の心音を聞いて安心したのか、さっきまで泣いていたのがすごくおとなしくなったと云っています。そして早く連れて帰りたい、とも。名前も付けて、すっかり子供へ情が移っています。


1月26日

 22日、ついに子供が誕生しました。
 その日僕は会社で残業中で、20時頃に陣痛の電話が入ってきました。急いで仕事を終わらせ自宅近くの産婦人科医院に着いたときには既に帝王切開で出産した直後でした。
 体重2050gの女の子でした。他の新生児より明らかに一回り小さく、保育器に入れられた状態で時折小さな声で泣いていました。妻は顔が腫れ上がったように真っ赤で、陣痛との格闘を物語っています。
 後で聞いた話では、16時頃から陣痛が始まり、義母付き添いのもとで入院、高齢出産であることや血圧が急に上昇したことから緊急で帝王切開手術となったそうで。子供が小さく生まれたことが気がかりですが、ともあれ母子ともにまずは無事ということで一安心して家に帰りました。

 翌日は会社を休みました。出産の報告をするべく車で実家に向かおうとしたとき、病室の妻から、今すぐ医院に来てほしいとの連絡が入り、車を途中で引き返して医院に着くと、体重が小さい上に脈拍が少なく、ミルクを飲むと吐き出したりするので救急車で小児医療専門の機関に転送するということでした。妻は医院に入院したまま、出生から半日で母と子は引き離されてしまいました。
 救急車に乗って付き添うのは父が死去したとき以来の経験です。振動が結構激しいですが、子供にはそれが心地良いのか気持ち良さそうに眠っています。
 小児医療専門機関は実家からほど近くにあります。僕が通っていた中学校はそのすぐそばで、昼や夕方になるとここのチャイムが風に乗って聞こえてきました。でもこの小児医療機関の建物に入るのは今回が初めてです。
 入院に必要な書類を何種類も書き、処置を待つこと2時間。ようやく子供と面会することができました。子供は集中治療室に入れられ、実の父母のみが面会を許されます。白衣とマスクを着用し、手や腕を洗剤で入念に洗うなど徹底したウィルス対策を施して初めて入室できます。
 集中治療室に入れられた子供は保育器こそ外されたものの、口からミルク授与用のチューブを胃に差し込まれ、点滴の管もつなげられ、その他心電図用の線がいくつもつながっていて痛々しいです。少し苦しいのか、環境のあまりの激変に戸惑っているのか、時々泣き声をあげては看護師さんにあやしてもらっています。
 医師の説明では、ここで少なくとも2〜3週間継続して様子を見るとのことでした。生まれたばかりの子供が親から遠く離れた場所に行ってしまうのは心細いですが、専門機関で24時間体制で見てもらえるのは安心感があります。

 子供がこの世に生まれて100時間を迎えようとしています。今のところ緊急の連絡もなく、容体は安定してきています。今日も車で40分かけて専門機関まで面会に行きました。ミルクチューブが鼻から差し込まれ点滴の管もつながれたままですが、顔色が心持ち良くなってきたようで、ミルクも摂取するようになり体重もわずかに増え始めました。これから何十年と続いていくはずの命の第一歩をうまく歩み出せるか。


1月19日

 14日(祝)、首都圏に大雪が降りました。
 雪が積もること自体は毎年何回かはあることなのでさりとて騒ぐほどのことではないのですが、
 今回の雪で特異に感じたのは交通機関への影響。
 道路交通はもとより各鉄道路線も運休が相次ぐなどしました。当日用事で出かけた人はさぞかし大変だったでしょう。
 翌15日朝の通勤時間、自宅最寄り駅では電車は平常通りにやってきましたが、あり得ないほどのすし詰め混雑!!
 どうやら車通勤していた人達が一斉に電車通勤に切り替えたようです。
 この日は首都高がほぼ全線通行止めとなり、幹線道路も渋滞続出で道路交通が機能しない状態でしたが、
 鉄道の存在を頼もしく思うとともに、東京都心部にあっても車で通勤している人がいかに多いかを感じさせられました。
 妻はこの日、産婦人科の検診に路線バスで出かけるつもりでしたが、1時間以上待ってもバスが来なく、かといって歩くと転んで危険なので診察予定をキャンセルしたそうです。雪による渋滞が、あらゆる方面に迷惑をかけています。

 その15日朝は氷点下で路面凍結があったとはいえまだ歩きやすい状況でした。ざらざらとした雪を踏みしめて行けば、凍結した轍の上なんかよりも転んだりするリスクが少ないですから。
 それが16日になると、昼間一旦溶けた雪がまた凍結してつるつるの氷の道と化していました。ざらざら雪の部分もたくさんの通行人が踏みしめられた結果面積が少なくなり、おっかなびっくりしながら氷の上をゆっくり歩むしかありません。
 一方で勤務先のある東京都心部では気温が郊外よりもやや高いこともあって、路面の雪は割合早いうちに溶けてなくなりいつも通りに歩いて出勤できる環境です。いつもより多少寒いことを除けば。
 今日で5日経ちますが、自宅周辺では畑がまだ雪で覆われていて、今回の雪の量がいかに多かったかを感じさせます。ここは子供心に返ってしばらくは雪遊び、という過ごし方もありでしょう。


1月12日

 一足遅いですが、今年もよろしくです。
 子供誕生間近という事情もあり、年末年始はいつも以上におとなしく過ごしました。
 初詣も例年は西新井大師まで出かけるところを、今年は近所の神社までにとどめたり。その分だけ、いつもより熱心に祈願してまいりました。

 さてこの時期、自転車で外を走り回ると、近所の庭や畑の一角とかにみかんや伊予かん、柚子、八朔など柑橘類の実がたくさんなっているのが否応なしにも目に飛び込んできます。どれも黄色やオレンジ色が見事なまでに鮮やかです。
 しかし残念なことにこれらの木の多くは実が収穫されないまま放置され、やがては落果してゆきます。
 スーパーに行くと、これらの果実が1個当たり50円とか100円くらいで売られていたりします。
 1個50円とか100円の価値がある(かもしれない)果実を、何もせずに放置しておくのは実にもったいない話です。
 そんな現実を見るたびに、もぎ取りたい衝動に駆られます(もちろんやったことはありませんが)。

 最近は日本人の柑橘離れが進んで、昔のような「こたつにみかん」的な光景はあまり見られなくなったそうです。
 そういえば実家でも昔はみかんをよく箱買いしていましたが、消費量が激減してここ数年はもっぱら少量袋買いです。
 みかん箱の置いてあった場所には別の野菜類が少量多品種体制で置かれています。
 現在の自宅でもみかんは脇役に回り、食卓に鎮座している主はお菓子類。
 昔と違って日本の食文化も多様化し、新しい種類の食が毎日のように生まれているこの頃では、毎日同じみかんというのもすぐに飽きられるのは仕方のないことかもしれません。そんな時代だからこそ、新しい食べ方の提案が求められています。
 とはいうものの、僕の頭の中ではそんなたいそうなアイデアが浮かぶほどでもなく。
 それでも果汁を絞って料理の引き立て役に使ったり、お酒で割ったり。
 小さい努力に取り組んでみます。日本の食を草の根で守ってゆく、年初めの小さな決意。

BACK道の果て バックナンバーへ
TOPトップへ戻る