メゾン 道の果て

2月28日

 長年に渡り東北・高崎線の通勤輸送を担ってきた211系近郊・通勤型電車が、3月の改正で両線から撤退します。

 211系がデビューしたのは昭和61年の早春でした。それまで両線の通勤輸送は115系が担ってきましたが、115系もその当時新製から20年余りが過ぎ老朽化が始まり、冷房のない初期の車輌は新車に取り換えることになりました。これを目的として国鉄が開発したのが211系です。
 211系はステンレスの車体にして、車体を塗装する必要をなくしました。伝統のオレンジと緑のツートンカラーは帯の色として残しました。添加励磁制御という国鉄独自の省エネシステムの導入、乗り心地を大きく改善した空気バネ台車、座り心地の良い座席など、来るべき分割民営化後を見据え従来の国鉄のセオリーを大きく転換した、次世代の車輌でした。
 通勤ラッシュ対策として室内のレイアウトも大きく見直されました。当時の115系はすべてボックスシート付きの近郊型配置でしたが、211系ではより多くの乗客を詰め込めるよう、ボックスシートのない全ロングシートの通勤型編成が製作されました。従来通りのボックス付き近郊型仕様の1000番台が5両編成で11本、通勤仕様の3000番台が同22本製作され、朝夕のラッシュ時に集中的に導入されました。
 当時東京都内の高校に電車通学した僕も、早速211系のお世話になりました。当初は大宮以北の東北線での運用はなく、赤羽から大宮まで高崎線方面行きの211系に乗っていました。そして乗る車両は専ら上野寄り5両に連結される近郊型1000番台と決めていました。純然たる通勤仕様の3000番台は、ボックスシートになじんできた沿線民としてのプライドが許せなかったです。
 昭和62年の分割民営化後、JR東日本は211系を追加導入しますが、混雑緩和を理由にその後の増備はすべて通勤仕様で製作することになりました。近郊編成と通勤編成を別々に運用しなくなり、15両編成がすべて通勤仕様で来るのが普通になりました。全車輌が通勤仕様で来ると見送って次のボックスシート付きまで待つことも多かったです。
 さすがに通勤型車輌の長距離運行は問題があったのか、平成12年から導入されたE231系からは扉の数を増やして通勤輸送に対処する一方で、少なくとも1,2,14,15号車にはボックスシートを導入して長距離客への配慮を見せたのは評価されます。今回、その後継となるE233系が、同様に1,2.9,10,14,15号車にボックスシートを付けて導入されます。E233系の進出で今回211系が撤退することになり、結果東北・高崎線(上野口)は全快速・普通電車でロング/ボックス席/グリーン車のいずれかの座席が選べるようになって、サービス面で一歩前進するといえます。

 E233系は昨年から高崎線での運行が始まり、気が付けば211系で運転する列車はかなり減っています。育児の合間を縫って、川口方面までビデオカメラを持って211系の最後の勇姿を見届けに行きました。登場から27年、新しいものでも22年。長年の活躍で車体は薄汚れ、かなりやつれて見えます。当たり前に見られたこの姿も、3月15日を最後に見納めとなります。
 211系の今後ですが、一部の中間車とグリーン車は引退・廃車、先頭車とモーター車は地方路線への転用が予定されています。その際、座席配置はどのようになるのか。通勤仕様のまま使われることになるのか。転身後の動きにも注目しています。


2月23日

 今回は昨年6月以来約8ヶ月ぶりとなる廃貨車レポートです。
 自転車で少し遠出をすると、ひょんなところに廃貨車は潜んでいます。先日も川口市内で2ヶ所、ワム60000かワラ1と思われる貨車を発見しました。うち1ヶ所は工場敷地内に2両の車体を2段重ねにして置いてありました。
 今回は廃貨車大量発見、と題して複数台同時に見かけた事例を紹介します。

 岩槻区内。ワム80000が5両、銀色に塗られて置かれていました。現役の倉庫として活用されているようです。
 中期グループと後期型(280000番台)と、2種類の車体が見られました。残念ながら車輌番号は完全に塗りつぶされて判読できません。
 同じく岩槻区内。空き地に白いコンテナーが大量に並べられ、何とも怪しい雰囲気。
 近づいてみると、コンテナーや車の廃車体に隠れて、ワラ1でしょうか、少なくとも5両の貨車が見えます。車輌番号までの確認はできません。
 周辺にはゴミが散乱し、後ろの竹やぶが成長して荒れるがままの状態です。
 反対側から見ると、敷地の境界線に謎の?ゴンドラが十数台、ずらっと鎮座していました。物の本によるとかつて日光の方面で使われていたロープウェイの搬器、らしいです。一体なぜここに大量に。

2月16日

 先月から3回子供の話題を続けて書きましたが、その間に会社の方でも大きな動きがありました。
 この1日に、会社の営業事務部門が独立、分社化したのです。
 従来、会社の営業事務は営業の一業務、おまけ程度にしか見られていなかった存在でしたが、近年会社を取り巻く環境が大きく変化し、会社のあらゆる物事が国際的な視点から見つめられるようになりました。ネット社会の浸透で世界中の人々が対等な立場で物を言えるようになり、これに対応して会計基準の国際化、内部統制の強化も求められるようになりました。以前のように多少いい加減な内容の契約を結んで、口頭でシステム開発の発注をするようなことが許されない情勢になってきました。
 そこで10年ほど前から一部の業種で試行的に営業事務の改革を進め、契約の作成・管理業務を営業から切り離して別組織にし、契約関連業務について徹底してルール化することで、外部監査が入っても健全性をアピールできるような組織、風土作りを行なってきました。一定の成果を経て全国規模に拡大し、さらに地区ごとに異なっていた事務処理ルールを全国共通にして、例えば北海道での契約を大阪で事務処理できるような体制作りも進めてきました。2年前の大震災の時もこの体制が出来上がったことで事務処理の停滞が最小限で済んだことをここで記しました。そしてこの体制を親会社にとどまらず他のグループ会社にも拡大(拡販)することを目指し、今回営業事務部門を独立した会社にすることになりました。

 で、僕はというと、当初計画ならば新しい会社に移る予定ではなかった人材でしたが、新しい会社には独立した経理や総務の組織が必要となり、その方面の必要知識にたけた人を、ということで急遽トレードで新会社に渡ることになったようです。毎度のことですが人事異動は直前まで発表されないので驚きました。
 2月1日を迎え、新会社の社員となりました。子会社で5年、親会社で15年弱。社会人満20年まであと2ヶ月を残したところでまた子会社の社員に戻る格好になりますが、仕事は昨日までと変わらず。親会社のまま残った、前部署への業務引き継ぎも進んでいないし。
 唯一大きな変化があったのは、社内に胡蝶蘭の鉢植えがいくつか贈られてきたことです。取引先からのお祝いのようですが、育てるのが難しいとされる胡蝶蘭にはちょっぴり戸惑っています。
 そして昨日金曜日は夕方から新会社の発足記念式典。懇親会もあって他の社員は皆出かけて行きましたが、僕は引き継ぎの仕事がまだ終わらず、マニュアル作りをひたすら続けていました。いつになったら終わることやら。


2月10日

 今週はかなり忙しい週でした。昨年12月下旬の組織改編での仕事引き継ぎが終わっていない状況で子供が生まれて休暇を取らなければならず、さらに去る1日には異動した新組織が営業事務部門とともに新会社に移行、今までいた組織とは会社が別になってしまいました。引き継ぎも急がれ、連日遅くまでの残業が続いています。

 そんな忙しい週の中、5日(火)に子供が小児医療機関を退院しました。経過が順調で体重が2,300gに達していることから急遽決まった退院でした。
 退院手続き後はその足でまず車で3分の実家に子供を連れて初顔見せ。親戚からはたくさんのお祝いをいただきました。中にはお宮参り用の衣装もあったりして、服飾にはしばらく困らなさそうです。
 この後はるばる自宅に戻り、生後2週間にして子供が初めて我が家に上がりました。
 部屋の中は20℃以上、入院時と同じように常に暖かい状態にしておきます。
 ミルクはおよそ3時間おきに1回、60ccずつを与えていますが、軽く平らげてしまいます。
 そのせいか顔色が一層良くなり、抱いたときに以前より重くなったような気がします。
 飲んだ後はしばらくおとなしくなりますが、寝ていたかと思うと急に大きな声で泣いたり。
 ただ泣くだけなので、大人には何がしたいのかよく分からず毎度戸惑っています。
 抱っこ、おむつ替え、おしゃぶり、何もかもが初めての経験です。
 それでも、義母の支えもあって、少しずつ着実に経験を重ね慣れつつあります。

 退院してから今日で5日目。すっかり我が家の主となって存在感を見せつけています。
 昨日もおむつ替えの最中にでかいうんこをひり出したり(笑)。
 子供がやってきたことで生活のスタイルは大きく変わりましたが、妻はそれをすっかり楽しんでいるようです。

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