メゾン 道の果て

12月31日

 今年も大晦日、1年を振り返る回がやってきました。
 思えば自然災害、海外の事故や戦乱、日本人の世界的な活躍などいろいろな出来事がありましたが、
 自分の身の回りの出来事でみると、

・交通科学博物館訪問(1月)
・雛人形購入(2月)
・中古8ミリビデオカメラ購入(3月),過去ビデオ資産のデジタル化
・大腸内視鏡検査(4月)
・リフレッシュ休暇(5月)
・労働組合研修合宿(10月)
・中古スマートフォン,格安携帯通信導入(10月)
・上信越一周鉄旅行(12月)

 1月と12月の旅行、それから8月の回で記した鉄道模型ショウは、高校時代の仲間3人で出かけています。出会ってから来年で30年。今でもこうして付き合いを継続しているのは意義深いと思います。年末にはその仲間達が6人で集まり、今年1年間の活動を報告し合いました。1人は今年結婚し、40代後半に入る年にしてようやくまた1人片付きました。
 消費税率引き上げを契機に中古8ミリビデオカメラを入手し、8月までかけて120本あったテープのデジタル移行が完了しました。3月の購入時15,750円(税込)だった本体も8月下旬に売却しましたが、買い取り金額は何と2,000円でした。それでも差額13,000円、1本当たり120円弱で移行作業ができたと思えば業者を使うより大幅に安く上がりました。
 10月に導入した中古スマホですが、まだ使いこなせず未知の領域が多いままです。ワンセグテレビは、録画済み番組の個別削除方法を自力で見つけることができましたが、ダウンロードした取扱説明書にもその記述がなく不親切です。最近では録画中に強制終了されて録画データが途中で切れる事態が時々起こって困っています。会社の同僚の端末でも同様に勝手に再起動する現象が起こっています。AndroidOSとメモリー残量の問題ということらしいですが、どう対処したらよいかよく分かりません。
 従来利用していたドコモの契約も10月末日で解約しました。解約手続きは思ったよりあっさりしたもので、ガラケー本体も戻ってきてワンセグテレビもしばらくは使えていましたが、半月ほどして常時圏外となり映らなくなってしまいました。それでもカメラやタイマーなどの機能が利用できるので引き続き使っています。
 この他12月には大学合唱団の50回定演があり、裏方としての活動を推進してきました。
 自転車は本日現在8,431km。1日の走行距離を15kmに短縮しましたが、それでも年間1,500km近く走る結果となりました。


12月27日

(前編からの続き)
 北越急行線の長いトンネルを抜けて日本海側に出ると雪はあられに変わり、小粒の氷が窓を叩き付けます。灰色の空が時折光り、雷鳴が聞こえます。
 そして直江津に到着後、すぐ近くで一発

ドカーン!

 この状況下では、駅から外に出ることもままなりません。
 しかし恐れ入ったのは、この荒天にもかかわらず、駅前広場で衆議院選挙の候補者が、何と演説をしていたこと!!しかも本人だけでなく支援者も数十人、のぼりを持ってあられの中お供しています。翌日が投票日だったのですが、いくら選挙戦最終日、最後のお願いといっても、これは命知らずなことを!通行人もなく、ほとんど誰も聞いていないのにご苦労様であります。
 30分待ってあられが小康状態となり落雷の危険がなくなったところで駅前を少し歩き、古びた小料理屋に入って、ここで昼食とします。日本海のとれたて海の幸の味を満喫します。

 次の列車は直江津14:50発、信越線<妙高6号>です。特急形車輌の183/189系を使用する普通列車で、今回ぜひ乗っておきたいという友人の願いで行程に組み込みました。
 国鉄特急色と「あさま色」の2種類が運用されていますが、この日は国鉄特急色の編成が充当されていました。先頭車は183系で昭和53年生まれ、中間車は189系で、乗車した車両(モハ188-28)は昭和50年生まれの39歳。同系列の大半が20年余りで廃車になっている中、奇跡的に長生きしています。車内も先頭車はほぼ原形を保ち、国鉄特急の雰囲気たっぷりです。 

 直江津を出て信越線は南へ進路を変えます。信越線のこの区間は来年の新幹線開業とともに新潟県部分は「えちごトキめき鉄道」長野県部分は「しなの鉄道」と、それぞれ第3セクター経営に移管されます。途中、上越妙高付近ではこの秋、新幹線接続に合わせ駅と線路が移設されました。車内から旧線や旧脇野田駅の跡を探そうとしたのですが、雪が降る前にきれいに片付けられてしまったらしく痕跡は見当たりません。
 新井から先は山越えとなり、雪がますます激しくなります。スイッチバックが今でも残る二本木、県境を控えた妙高高原、列車は2〜3分程度の遅れだけで平常通り走ります。183/189系の耐寒耐雪仕様が大いに役立っています。
 長野県側に入ると雪の降りが穏やかになってきました。豊野から長野都市圏に入り、ほぼがら空きだった車内は急ににぎやかに。長野16:31着。辺りはかなり暗くなっていました。

 長野で一度下車しここで適当にお土産を求めた後、最後は最新のE7系新幹線初乗車で締めくくります。長野18:11発、<あさま544号>。東北新幹線のE5系とまた違った、赤を基調としたインテリアデザインは華やかさと落ち着きが共存しています。3人で持ち寄った酒とおつまみで、今日の旅を振り返ります。


12月20日

 先週末、高校時代の友人と3人で新潟・長野県方面を日帰りでぐるりと一周してきました。
 今年1月に大阪の交通科学博物館を訪問したときの、そのメンバーです。
 今回の旅の目的は、国鉄形車輌の乗り継ぎです。
 来年3月に北陸新幹線が金沢まで開通すると、新潟・長野周辺の運行体系も車輌の顔ぶれも大きく変わってしまうので今のうちに乗っておこう、ということで実行されました。本当は10月に紅葉を楽しみながら、の計画でしたが、お互い業務多忙でスケジュールが合わず、雪が降り出す12月にようやく実現となりました。

 大宮駅で合流後、まず6:52発、高崎線の普通列車グリーン車に乗って高崎に移動します。普通列車グリーン車の車内は、乗客の入れ替わりが多い普通車とは別世界のような静けさです。
 高崎からは普通列車を2本乗り継いで越後湯沢へ。2本の列車はどちらも115系の3両編成でした。途中水上までの列車はオレンジと緑の湘南色、水上で乗り継いだ列車は白と緑系の新潟新色です。どちらも数少なくなった国鉄時代の仲間ですが、この地域では主力として活躍を続けています。

 国境の長いトンネルを抜けると、小説に出てきたような一面の銀世界。積雪量も多いにかかわらず、スキーシーズン前ということもあってか、行楽客はまばらです。
 越後湯沢10:21着。次の目的の列車まで1時間以上あるので駅前を散策します。駅周辺のどこかの店で新潟名物「へぎそば」を食べようという魂胆でしたが、雪が舞ってくるあいにくの天気となり、傘を差して前進するも営業している店自体がなく、寒くて駅に戻ってくる始末。結局駅構内の店で落ち着くことになりました。

 11:44発、北越急行直通の普通列車に乗車します。この列車に使用される車輌はHK100-100形「ゆめぞら」で、トンネルに入ると天井にプロジェクターで映像が流されるアトラクションが仕掛けられています。北越急行線のトンネルは長いので、その長い時間を退屈させない、大変ユニークなアイディアです。
 今回乗車時のテーマは「花火」でした。オーケストラや太鼓など威勢の良いBGMとともに、心ゆくまでアトラクションを堪能することができました。
 線内では特急列車との行き違い待ちが2回ほどありました。特急列車の高速通過が見られるのも、来年の新幹線開業までとなります。

(後編へ続く)


12月14日

 先週の土曜日、大学合唱団の定期演奏会を見に行きました。
 定期演奏会自体は毎年1回の定例行事ですが、
 今年の定演がいつもと違うのは、50回の節目を迎えるということでした。
 今までも20回、25回、30回、40回、45回と、卒団生と現役生合同によるステージを組んでの演奏をしてきましたが、今回は50回記念ということもありこれに加えて「委嘱初演」といって、外部の作曲家の方に組曲を書いていただき、この定演で初めて公開演奏する、という取り組みを行なうことになりました。
 もちろん1年などといった短期間で組曲ができるものではなく、5年前の合同ステージのときから構想立案は始まっていました。作曲家の選定、詩の選定、曲作りの依頼。合唱団にとっても先生方にとってもOB会にとっても、何もかもが初めての経験で、手探り状態で進められました。いろいろあって作曲家が決まったのも残り2年となった辺りでした。詩についても一部は団員やOBから集めようという話が一旦は出て、我々OB会実務もメールで詩の創作をお願いしたり案を集め回ったり。それが方針転換で既存の詩を使うことになり、二転三転の末詩が決まったのは昨年秋の段階でした。ここから作曲が始まり、組曲がすべて仕上がったのは今年の盛夏の頃と聞いています。
 一方で僕はというと、過去の30,40,45回でOBとして合同ステージに上がりましたが、今回は家に小さな子供がおり、子供と過ごす時間を確保したいという理由で出場を見送ることにしました。若い卒団生にもっとがんばって歌ってほしいという期待も含めています。そして家にいながら支援できるOB会活動を中心に、裏方として今回のイベントをサポートしてきました。

 ステージは3部構成で、3ステージ目が委嘱初演、今回初公開となる未発表曲のステージです。
 事前準備の混乱で時間的な損失が多く、練習回数も少なくなり、演奏の仕上がりが定演に間に合うのか危惧されましたが、ふたを開けてみると..
 ここ数年で格段にレベルの上がった現役生団員が、短い練習期間にもかかわらず正確なハーモニーで歌いこなしている、というのが強く印象に残りました。
 曲そのものも複雑な造りで、かなりハイレベルな歌い方が要求される難しそうなメロディーライン(のように聞こえた)でしたが、その難題をもこなした今回の合同ステージには大きな拍手を送りました。
 今回のステージに立たなかったことをちょっとだけ後悔はしましたが、委嘱初演を客席前方から楽しむのも、節目のイベントをお祝いするやり方なのだなあと再認識しました。
 ともあれ記念演奏会が無事に終わって何よりです。今回のステージに関わった全ての関係者の皆様に御礼申し上げるとともに、これからも卒団生の一人としてこの合唱団を応援し続けていこうと改めて誓いました。


12月5日

 竹ノ塚駅付近の高架化工事が本格化してきました。
 工事自体は2年前から始まっていましたが、これまでは一部線路の移設など下準備となる地道な作業が中心でした。
 それが今年に入って資材の搬入が進み、やぐらが立って、進捗度合いが目に見えて分かるようになってきました。
 秋を迎えると高架の橋脚が建ち始め、一部では橋桁が渡される部分も現れるなど、景観が少しずつ変わってきています。

 竹ノ塚駅を挟んで前後には2つの大踏切があります。
 ここにはかつて監視員が付いて遮断機を操作していましたが、10年近く前の平成17年春、監視員の操作ミスが原因で歩行者が電車に轢かれる事故がありました。これを機に踏切は自動化されましたが、抜本的な対策として高架化を求める声は強くなっていました。前後の区間が高架化を完了しているのにここだけが地上で残されたのは、すぐ近くの地下鉄車両基地に電車を出入りさせるのに線路を急勾配にさせなければならない、というのが理由とされていました。しかし地下鉄乗り入れ用の車輌は急勾配を難なく上り下りできるので、さしたる問題ではないはず。なぜそんなに時間がかかったのかたずねてみたくなります。何か別の理由があったに違いない。

 まず高架化されるのは上下2線ずつあるうちの下り急行線です。
 複々線の踏切だけに電車がひっきりなしに通過し、特に朝夕は開かずの踏切となっています。それを知ってか、現在は車の通行も少ないですが、1線高架化で踏切が閉まっている時間がわずかでも短くなります。
 最終的に4線すべてが高架に切り替わるのに数年がかりとなりますが、その暁にはこの地上の風景も過去のものとなってしまいます。今のうちに記録しておきたい光景です。

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