メゾン 道の果て

11月29日

 妻の姉夫婦がフリーマーケットに出かけては、時々おもちゃを仕入れてきますが、その中にプラレールより一回り小さい鉄道おもちゃ「プラレールアドバンス」が入っていました。
 内容は100系新幹線、山手線用E231-500系、京浜東北線用E233-1000系の3種類でした。 

 「プラレールアドバンス」とは、プラレール軌道で車輪が通過する部分の両脇凸部を、複線のNゲージ相当の線路に見立て、プラレールより一回り小型の車輌を走行させるという、従来のプラレールと異なる発想のシステムです。上写真で手前に映っているプラレール車輌と比較すると、その大きさや構造の差が分かるかと思います。
 実際にアドバンスが走るプラレール軌道の踏面突起部の幅を計測すると、ちょうど9mmでNゲージ鉄道模型と一致します。プラレールが複線のNゲージ線路となって列車をすれ違い走行できる!これはちょっとした発見だったのでしょうね。
 ところがプラレール線路はNゲージよりカーブが急で複線間隔が狭く、すれ違い走行を実現させるためにはアドバンス車輌の長さを切りつめなければなりませんでした。縮尺はNゲージと同じ150分の1ですが、車体長さはスケール通りではなくショーティーとして割り切っています。
 プラレール線路を実際に走行させてみます。単4電池1本で駆動し、動力車屋根上にあるスイッチを前進/後退に切り替えることで両方向への進行が可能です。直線では順調に進み、カーブでの2編成すれ違いもうまい具合にクリアします。ところが、分岐器を通過させると必ず脱線します。案内レールが途切れる部分が長く、ここで傾いて脱線するようです。ストップレール(駅)でも同様で、軌道外側に押し出されるような恰好で脱線転覆します。
 後で知ったのですが、分岐器はアドバンス専用のものが準備されているそうで、逆に通常のプラレールはアドバンス用分岐を走らせられません。ここでも割り切りが生じています。
 システムがNゲージに近いということで、今度はNゲージの線路上を走らせてみます。
 直線や曲線では時折スリップしながらも走っていましたが、ここでも分岐器では決まって脱線しました。
 原因を調べると、アドバンス動力車のフランジ(車輪内側のつば)間隔が約6mmと狭く、Nゲージ分岐器の構造にもよりますが脱線防止の内側案内レールにフランジが乗り上げて傾き脱線するようです。動力車以外では車輪が片側ずつ独立して5.5mm〜7.5mm(筆者実測)の可変となるので多少融通はありますが、動力車は独立していないのでこれがネックになっているようです。
 いずれにしても個人的には、プラレールと鉄道模型の中間を狙ったものの、そのどちらでもない中途半端な存在、という感想でした。製品アイテム数も少ないですし。
 子供にとってもアドバンスはまだ早いようで、遊ぶときはいつも大きい方のプラレールを指差し、アドバンスの出番はあまりありません。このまましばらくお蔵入りとなる可能性が。


11月23日

 実家の母が一時入院して手術を受け、先日退院しました。
 入院したのは9月末のこと。腹痛を訴え、近所のかかりつけの医者に診てもらったところ、大病院で精密検査を、ということで転送され、その日のうちに応急手術となりました。
 原因は急性の胆嚢炎。胆管に結石が発生して肝臓の機能が低下したということですが、担当医師によると胆嚢に腫瘍の可能性があり、改めて開腹手術をしないと腫瘍があるかどうかも分からない(超音波などの検査でも見つかりにくい場所)とのこと。年齢が80を超えており、全身麻酔による長時間の手術に体が持ちこたえられるか慎重に検討するという回答でした。
 80を過ぎても母は相変わらず元気でいましたが、入院生活が長引くにつれて少しずつ元気がなくなっていくようでした。それでも回復できることを信じて、1ヶ月間にいくつもの精密検査を受けました。検査の結果、腫瘍の可能性は低いとのことでしたが。
 11月に入り、手術の日を迎えます。朝に全身麻酔をかけ開腹し、所要7〜8時間かけて胆嚢の一部を切除し結石を取り除きます。後で見せてもらいましたが、直径1cmくらいの堅い石が4粒も入っていました。腫瘍は見つからなかったそうで一安心です。
 翌日改めて母を見舞うと、受け答えはできるようにはなりましたが、全身麻酔の影響か、幻覚症状に襲われるといいます。また気分が悪くなって食べたものを吐いたり。このような不安定な状態が数日続きましたが、看護師の皆さんの懸命な介護もあって2週間後には一時帰宅ができるようになりました。
 その後も順調に回復し、今回正式に退院となりました。まだ本調子ではないようですが、いつも通りの生活に戻れてよかったと思うとともに、もし自分が全身麻酔を受けることになったら、ということを考える機会にもなりました。本人は健康なつもりでも、何が起こるか分かりませんからね。


11月18日

 大学時代に所属していた合唱団が創部60周年を迎え、この週末、記念式典を開催しました。
 OB会にとっては昨年の第50回定期演奏会での委嘱初演に続く一大イベントとなりましたが、10年区切りの節目の年ということで、10年ぶりに現役団員全員ご招待での総会を開催することにしました。
 準備は夏頃から始まり、役員会合を例年より多く開いて調整を進めました。役員も一部若手に入っていただき、若手や中堅年代の卒団生にどのようにしたら参加しやすくなるかについても話し合いました。
 会費は今回1人1万円で設定しました。通常年のほぼ倍の金額となりますが、予想される卒団生の参加人数よりも現役生の人数の方が大きく上回っているのでやむを得ないところでした。それでも会場を大学運営の会議室利用にしたり、食事も学内のケータリングサービスを利用して経費節減に努めました。

 さて当日は17:00に開場し、17:15から総会、17:30から式典で予定していましたが、大学当局側の準備が早く整ったことで、10分ほど繰り上げて開会することができました。
 参加人数は卒団生35名、現役生53名、そして先生方を含めて合計90名の盛大な集いとなりました。
 乾杯を前に、まず現役生が校歌、応援歌、そして手持ちの曲から2曲を演奏します。
 また、お世話になっている先生方に、卒団生を代表して花束、記念品をお渡ししました。着任されて25年,20年となり、長いお付き合いとなっています。
 乾杯の合図とともに、現役生と卒団生が入り交じりました。卒団生は大半が還暦以上ですが、多数派となる現役生が卒団生に積極的に話しかけ、年代を超えた付き合いの輪が広がります。僕もこの会場で、何人もの現役生と情報交換をすることができました。
 2時間近くに及ぶ懇談の時間も早々に過ぎ、全員で改めて肩を組んで校歌を歌い、最後に「明大節」を踊って締めくくりました。その明大節の踊りを僕がすることになったのですが、これまた約10年ぶりのこと。半分忘れかけ思い出しながらも、酔った勢いでカラ元気に披露しました(笑)。

 ともあれ式典が無事に終わることができて良かったです。進行は滞りなく思い通りに進んだという印象でした。
ボリューム多めに準備されたという料理も、現役生によってきれいに片付けられましたし(飲んでしゃべっているうちにみんななくなっていたのが少し悔しいですが)。
 一方でOB会としての課題はたくさんあります。今回の式典でも若手や中堅の卒団生が非常に少なく、合わせてわずかに数人だったのは、事務局として寂しい思いがしました。懇親会費が高かったこともあるかもしれませんが、それにしても若手だけでも100人単位の卒団生が現実にいる、ということを考えると実に残念です。これからは若手卒団生が参加しやすい組織作りを、年代別活動の活性化も含めてみんなで考えなくてはならないと思います。いつまでも年配の方々に頼っていられませんし、早急に対策を考えてゆきたいところです。


11月8日

 自宅敷地内で咲く、秋の花達の中から。

 アメジストセージです。鉢植えで育てていたのがいつしか自生し群落となっています。
 サルビアと同じ科目に属し、花の形も(そう言われると)似ていますが、高級なキルトでできたように見える紫色の花は気品さが漂い、その触り心地もまた布生地のようで気持ち良いです。

 花壇を埋め尽くしている、姫蔓蕎麦(ひめつるそば,ポリゴナム)の群落です。
 昨年までは義母が松葉牡丹などを植えていましたが、主がいなくなった今年の花壇は雑草の芽で一面覆い尽くされ、その中から勝ち残ったのが姫蔓蕎麦でした。この花壇だけでなく、周辺至るところに生えてきて生命力の強さを見せつけます。
 夏の間はひたすら葉の数を増やしていたのが、10月に入って薄い桃色の花を付けるようになりました。葉も緑だったのが赤く変わってきている株もあります。

 オキザリス(紫カタバミ)です。これもまた鉢植えから種が飛んで、敷地内いくつかに分かれて自生しています。生命力が強く、芝生の中に生えてきた株を何度抜いても新しい葉が次々生えてくるしぶとさです。
 カタバミも品種が多く、葉が紫色の変種を以前紹介しましたが、上写真のが本来の種に近いとされています。が、2枚の写真を比べると花や葉の形、色が少しずつ異なり興味深いです。


11月2日

 10月21日、映画 'Back to the Future Part2' に描かれた「30年後の未来の日」が現実にやってくる日でした。
 映画が公開された当時、「30年後の未来」では車が空を飛んでいたり、浮上式のスケートボードを操っていたり、当時の少年にとっていかにもかっこ良い、憧れの未来というように描かれていましたが、さて現実の30年後は。

 30年前当時とあまり変わっていないなあ、というのが率直な感想です。
 確かにコンピューターの世界では劇中の予言通りに実用化されたものや、現実の方が先を進んでいるものもあります。インターネットで世界中のあらゆる物事を検索したり、世界中の動画や出来事を共有したり、それらがスマートフォン1つで簡単にできてしまうのですから、ネットワーク技術の飛躍的な進歩には驚いてしまいます。
 だがそれを除くとどうだろう。世の中のあらゆる仕組みを見渡しても、ここ30年で劇的に変わった、という印象はあまり持っていません。その前の30年、1955→1985の進化の方が劇的過ぎたからなのでしょうか。
 1955(昭和30)年、まだ僕が生まれる前でしたが、当時の日本はまだ豊かではない時代でした。テレビは放送が始まったばかり、冷蔵庫が普及し始めた頃。木でできた五右衛門風呂。便所は俗にぼっとんと呼んでいた汲み取り式。
 これらが30年の間に、テレビはカラーになり、さらにビデオで録画が出来るようになりました!ビデオカメラはまだ憧れでしたが、さらに数年下れば10万円を切る価格で手に入るようになります。クーラーも入って夏は涼しい部屋で1日過ごせ、トイレは水洗になって激臭ぼっとん便所ともおさらばできました。
 これらのアイテムが1985→2015ではどう変わったか。テレビは薄型液晶、ビデオはハードディスク録画に変わりましたが、コンテンツの方はあまり進化していないような。クーラーも省エネ化、トイレは温水洗浄便座が普及しもう少し快適にはなっていますが、その前30年の革命的変化に比べると落ち着いているなあ、という印象です。

 ここ30年の間に人類は進歩したのだろうか。1985年当時はまだソ連が存在し、ペレストロイカの前夜でした。現実では多くの共産主義体制が崩壊し、インターネットを通して世界中の人々が自由に物事を言えるようになり、国家間の戦争がほぼなくなったのは進歩といえると思います。ただし内戦は逆に増え、国家はテロリストとの戦いという形でピンポイントの戦争を続けることになります。ごく一部で進化が止まるどころか退化している人々がいるようです。
 それをさておいて、ネット社会の誕生により全世界で情報の共有が進められました。災害対策や医療技術なども世界中のあまねく人々に広められ、以前の体制では失われていた多くの命を救うことにつながっていると信じています。そうしたことを考えると、確かに進歩しているといえるかもしれません。
 次の30年、どんな世界になっているかは全く予測がつきません。リニアモーターカーで東京から名古屋まで行けることはあっても、そこから見渡す景色は今とほとんど変わっていないことでしょう。それでも人類の英知がさらに結集され、世界のどこでも平和で安心して暮らせるようになっていることを願いつつ。

BACK道の果て バックナンバーへ
TOPトップへ戻る