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月替わりコラム

道の果てから

Vol.6('00.3) 電車大好き

 僕は、電車が好きです。
 駅から近くに住んでいたこともあって、物心ついたときから電車と付き合っていました。
 家の中では積み木を電車に見立てて動かしていましたし、プラレールを買ってもらっては喜んでいた記憶があります。近所の家に遊びに行くと、プラレールの線路がたくさんあって、電信柱や鉄橋なんかも揃っていたりして、金持ちってすごいなあ、と感動したこともありました。そのプラレールも小学校のときには処分されてしまったらしく、探しても見当たりませんでした。

 小学校時代は、学校が終わると近所の丘に行き、駅に出入りする電車や列車を眺めていました。この頃は東北新幹線がまだ開業しておらず、仙台や盛岡、青森へ向かう特急や急行、EF58形電気機関車牽引の荷物列車、黒い貨車をたくさん連ねた貨物列車、こういったキャストが北へ南へ、我が街を通り過ぎていきました。駅に止まるのは30分に1本の普通電車だけで、そのうち3割くらいは冷房が付いていませんでした。今では冷房など当然に付いているものですが、夏の暑い日に窓を全開にして涼むのもこれまた魅力でした。
 小学校も高学年となると、鉄道ブームが起こります。一過性のものではありましたが、沿線の田んぼで特急電車を撮ったり、鉄道模型を買ってもらったり。僕も鉄道模型を始めたのはこの頃でした。常磐線のピンク色の電車4両でしたが、後に改造して東北線の電車に化けています。
 またちょっと小遣いがあると、大宮まで電車を乗りに行くこともありました。帰りはさらに上野まで出向いて、急行形車両の普通電車、それも無料開放のグリーン車に乗ってくつろいだりしました。

 中学校は自宅から遠く離れた田んぼの中にありましたが、東北線がよく見えるロケーションで、休み時間になると北側の廊下に行って電車を眺めていました。そしてこのロケーションは写真愛好家にとっては有名な撮影地でもあり、現在でもそうですが特別な列車が来るときにはどこからともなくたくさんの写真マニアが集まってきました。とりわけ「お召し」が走るとなると、その数は200〜300人くらいの人垣となり、道路にずらりと三脚の列が並ぶ様は実に見事でした。こうなると生徒もそれを察知するのか、授業を中断してお召しを見に行くこともあったりしました。
 昭和57年11月改正後は特急が少なくなり、少し寂しくなりました。代わりに普通電車の本数が増え始めます。もっぱら11両、15両で走っていた昼間の普通電車が7両編成に短くなったのもこの頃で、少し違和感を感じたのを覚えています。
 さらに昭和59年2月には貨物列車を中心とした改正が行なわれ、貨物列車から突然黒い貨車がいなくなりました。あれだけ連結されていたのに、どこへ行ったのかと思うくらいでした。最後部に連結された車掌車もなくなり、編成が途中でぶった切られたように見え強烈な違和感を感じました。

 中学を卒業し、東京都内の高校に通いはじめます。鉄道研究会に入って活動したことは前々回のコラムでも触れた通りですが、鉄研に入部したことで世界が今まで以上に広がりました。広がったというか、完全にはまったという方が適切かもしれません。車両の研究をしたり、鉄道模型キットの組み立てをしたり、青春18きっぷで旅行したり。これらはいずれも高校時代に始めたことです。お互いがライバルとなって、自分の路線だけは譲れないとばかりに一生懸命に研究していました。車両の研究は外観から内装の細かい部分まで1両単位で、そして模型でもこれを再現する。この3年間のおかげで、東北線の普通電車に関してはエキスパートになったと言えるくらいです。

 思い出話が多くなりましたが、今でも、電車が好きです。高校時代ほど熱狂的ではありませんが、毎日の通勤に、そして一生の趣味として、もはや鉄道を抜きにして生活できないでしょう。東北線の電車も、あれから20年経ちますが、主だったメンバーは変わらず毎日走りつづけているのは実にうれしいです。
 しかし、この東北線にも新型車両が導入されることになりました。計画では今後3年間で東北線のオレンジと緑の電車(115系)を一気にすべて置き換えるとのこと。僕の青春の1ページがなくなるようで、つらいです。これからの残り3年間、空いた時間を使って彼らを記録に残そうと思います。個人の思い出として、そして次の世代への記録として。

平成12年3月20日

 今回コラムの写真はこちらです。

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